長野県千曲市・善光寺街道

稲荷山まち並み委員会

◆稲荷山の歴史

~稲荷山城と城下町~

 戦国時代末期、上杉景勝によってつくられた稲荷山城は、千曲川を背に三方に濠を廻らせた構えで、城内には南北に大路を通し城下町を設けていた。高札場のあった城下町の中心はクランクのあたりで、水路や大路、小路など現在の稲荷山の基本的な姿ができあがる。

~善光寺街道の宿場町へ~

 城内の人々の日曜雑貨や食糧の調達のため五日ごとに市を開いていたが、まちに人が増えてくると八日市も開催される。江戸時代に入り全国の街道が整えられると、稲荷山も幕府の命令により善光寺街道の宿場町として歩み出し、まちはますます発展していった。

~善光寺地震~

 1847年5月8日、信州(現長野県)の善光寺平(ぜんこうじだいら)を震源とし直下型で発震、付近に多大の損害をもたらした地震である。地震規模を示すマグニチュードは推定で7.4。殆どの建物が焼失。善光寺の御開帳と重なって、死者182人の犠牲を出す。

~商業地としての発展~

 江戸時代の商いの中心は木綿であったが、開国により安い綿糸が輸入されるようになると、稲荷山の商人は敏感に生糸に切り替えた。明治中期頃には116軒の商家が軒をつらね、まさにまち全体が一つのデパートであり、その取引高は県下第二位、呉服反物取引では第一位であった。